記号論的に見た”消費”とは?

マーケティングの神話」の中では、”消費”は記号論的フレームで捉え直されている。

記号論として読むと、”消費”とは、「自分自身の価値を定着させ、アイデンティティを守ることを目的とする行為である。」とされている。ここでは消費が、ライフスタイルを創出し、自己についての観念を構築するための活動として定義されているわけである。

非常に「判りやすい」定義だと思う。その活動には2つの前提があると思う。

●コンテキストの生成
まずは意味の土台となる集団としてのルールの形成である。もともと意味は曖昧で、個人的な経験である。同じ出来事にたいしてある人が抱く意味と別の人が抱く意味とは異なる。また、ひとつの事項に対して付与される意味は、段々と形を変えてゆき、何年かたって振り返るとその意味はまた変化してくる。このように意味が不安定であると、社会におけるコンセンサスの基盤が失われてしまう。そこで私達はその意味を同定し固定化しようとするのである。

●意味の生成
一方で個人としての私を考えてみよう。私を取り囲む環境の中で、私は自分自身についての自己像、それに対しする他者からの自己像の変化、そして新しい経験をどのような意味や価値として処理するかなど、様々な自己アイデンティティの危機にさらされている。モノとは、こうした漠然と流動的な自己の意味を可視的に固定さ実証可能なものにする道具である。自分を定義する社会的コンテキストにそった価値のモノを身に纏う事で、私達はたえず、自分が誰であり、どんな生き方をする人間であるかを教えられるのである。

●意味は動的に生成される
つまり、私達は、集団としてモノに意味を与えつつ、個人として対象から安定した意味を供給されている。そのルールに則って消費行動は行われ、その目的はアイデンティティの連続性を確保する為である。

石井淳蔵さんの論旨をかなり曲解しているかもしれないが、以上のような議論はとても興味深かった。この議論のポイントは、消費とは、客観的世界からの刺激に対する反応ではなく、消費によって現実を自ら構成する行動であるという点であると思う。